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思いやる・分かち合う・地域の而立 香川(讃岐)はひとつの国

地方に住んでいる人々にとって、日本が一つの国と意識されだしたのは、明治維新以来わずか100年余。それまでの長い時代、60余州と呼ばれたように、ほとんどの人にとっての 「くに」 は、お国訛りという言葉で表わされるとおり、讃岐・伊予.阿波.土佐といったという単位で意識されていたといえる。(徳川時代は300諸侯<藩>)
よくよく考えてみれば、今の時代でも、ふだんの私たちの頭に描ける範囲、そして影響を与えられる範囲は、その域を出ていないのに気がつくはずだ。
毎日のように、テレビ・新聞などのマスメディアから浴びせられる情報は、日本が一つ、いや世界(地球)が一つとさえ感じさせる。インターネットからの情報もそれを加速している。その大きさに圧倒され、一人一人のなせる力が、卑小に思えてきてしまう。そのあげく、「自分ひとりが、何を言っても、何をしても一緒。世の中は変わらない」 という気分が横行することになる。
国政の状況は、政治の惨状は横に置くとしても、官僚制度の弊害・極限に達した財政赤字・公共投資一辺倒の景気対策・自給を放棄した農業の衰退・教育の問題などなど、制度疲労は目を覆うはどであり、誰にとっても限界は明らかだ。北海道から沖縄まで、合意を求めて新しい制度を変えようとしても、せいぜい継ぎはぎが関の山で、おおかたは、問題の先送りで終わってしまうだろう。
いま、全てのものを、ここ 「讃岐の国(香川)」 の単位で見直すことができないだろうか。さぁかす創刊の想いはそこにある。
「嘆いていては始まらない。讃岐(香川)の人と歴史、一人一人の想いを知ることから始めよう」
「人と地域に対する愛着が、いまの逼塞している状況を変革するエネルギーに、繋がらないはずはない」
そんな確信は、ますます強くなり、広がりを見せている。それは必ずや、「自分たちのことは、人任せや、お国任せでなく、自分たちで決めたい」という想いを育てるに違いない。
そのことはすでに、高知・三重・長野・東京などで、知事一人を選択する住民の意思から、始まっている。一方で規制緩和の名のもとに、「市場が万能」であるかのようなカ想が、世を覆っている。弱肉強食が世の習いとでもいうふうだ。
アダム.スミスが、他の競争条件が同じとすれば、市場は 「見えない手」 で、操られるとした、その前提はどこかに忘れ去られている。
「市場が神の手」 とは、誰がいいだしたのだろう。
もともと、どの地域でも生産と消費は表裏で、同時に存在していた。誰もが、生産し、消費していた。
ところが、情報や流通の発達は、自分だけは安いものを、いいものをと求める消費者の顔ばかりが肥大化させた。そう言う消費者の働き場を地域から奪ってしまうのを知ってか知らずか、自分だけは大丈夫と錯覚してか。
大量生産・大量消費に疑問が呈せられながらも、効率だけが問題でとされるリストラの名のもとで、生産の集約と海外移転が進んでいる。
消費者の利便との名のもとに、いまだに大型ショッピングセンターが、次々と生まれている。近所の商店が消え、町工場が消え、農業が消え、大型スーパーとコンビニだけが残る。そのスーパーが採算を理由に突然閉鎖され廃墟が残っている地域もある。
勤め先が、役所と公共事業と半ばそれに近い企業(NTT・電力・銀行・農協…)とその関連だけになったとしたら、どんな暮らしが地域に残るのだろう。
それは、まさに他所事ではない。香川県でも、既に山間地など過疎の地域のあちこちで見聞きできる。
地域から生産が消された時、道路だけが増え、車で走り回る消費者だけがいる、そんなコトにならないために、一緒に考え、行動したい。
さぁかすは 「みんなが集う広場」。

 「さぁかす7号・巻頭の言葉」より 多田羅譲治

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